河村シゲルの夢か現か日記

夢は自分自身で創る芸術作品、脚本・演出・セット・キャスティングなど全て1人で担当してます。「無意識の思考を意識に伝えようとしているのが夢」だと、あのフロイトが言っています。ボクは最近、夢を毎日見ています。だからもう一人の自分探しの旅のつもりで夢日記を書き続けることにしました。

かげろうは、朝に生れ夕べに死す・・・

ドーンパープルとあけぼの色のグラデーションの空・・・

夜明けの一瞬の、儚い美しさ・・・

ボクの大好きなひと時。

森の脇を流れ下る、細い小川・・・

ボクの大切な隠れ家のひとつだ。

そこには真っ赤な弁慶蟹や小鮒や泥鰌がいて、遊び相手をしてくれる。

秋が深まる朝、何処からか決まって黒い蜻蛉(かげろう)が飛んで来る。

空中に居るといったほうがいい。

蜻蛉は本当に陽炎のような存在感・・・

いると思えば居る。

居ないと思えばいない・・・ほどの淡い存在なのだ。

そして、決まって一匹だけ・・・孤独・・・

かげろうは、朝に生れ夕べに死ぬ。

一日限りの命だから、口がない。

食べる必要がないのだ・・・

いにしえの文人たちも、儚さの象徴として見つめていた。

しかし、、今、ボクの前を舞うかのように漂うかげろうに悲壮感はない。

小さな命を楽しむかのように、朝の小川を飛んでいる。

たった一日の命なのに、この凛々しさは・・・

この美麗さは・・・

この愉しげな飛翔は・・・

ボクたちは、ひとの命の儚さを嘆くこともなかろう。

朝に生れ、夕べに死す、この健気な蜻蛉を見るがいい。

己の贅沢なわがままに、羞恥心が湧き上がる。

口舌の徒が、百万回の理屈を唱えても虚しいだけ・・・

生きるとは・・・

たった、二文字・・・

「覚悟」

心身を滅却することなのだ。

(かげろうの幼虫が、あのトラップの名手、蟻地獄だと知ったのは大人になってからだった。あの蜻蛉と蟻地獄・・・将に和と荒・・・善と悪・・・この世に生きるモノの象徴的な存在だな。しかし、理屈っぽい夢だった(笑))