河村シゲルの夢か現か日記

夢は自分自身で創る芸術作品、脚本・演出・セット・キャスティングなど全て1人で担当してます。「無意識の思考を意識に伝えようとしているのが夢」だと、あのフロイトが言っています。ボクは最近、夢を毎日見ています。だからもう一人の自分探しの旅のつもりで夢日記を書き続けることにしました。

ゴミの知識とクズのスキルを持つ大人たち・・・

不図、気がつくと何時か何処かで見たような景色の中にいる。

いつもの緑に覆われた岸辺に立っている。

その下は川ではなく、高速道路になっている。

これもデジャブだ。

高速道路には、車ではなく人間たちが走っている。

全て大人の背丈、男も女もいる。

かなり大勢が車のように、渋滞しながら走っている。

ボクの目が俯瞰のルーズショットから、ズームインする。

ひとりひとりが鮮明に見える。

そして、更に見えて来た。

どの人間たちも、自分の意思で走っていないのだ。

どの顔も、能面のように表情を変えない。

ただ、時の流れに身を任せているだけだ。

朝のラッシュアワーの満員電車の中と同じなのだ。

ゴミの知識とクズのスキルを持った人間たちばかりのようだ。

自分だけの予断と偏見を膨らませた知識で頭がいっぱいなのだ。

だから、他人を理解しようとはしない。

自分のトリビアな知識で、全てを判断してしまう。

つまり、岸辺の下を流れてている大人たちは、まだ子供のままなのだ。

現代の子供の頭は、予断と偏見とトリビアな知識で溢れかえっている。

こんなものは、ゴミのようなものなのだ。

子供たちは、このゴミを必死に守ろうとする。

ボクも子供の頃は、そうだったもの。

でもいつか、訓練や教養を積み重ねていない能力は、生きる為の技能にはならないことに気がつく。

だからスキルアップに励むのだ。

これに気がついた子供を、社会は大人と呼ぶ。

ゴミの知識とクズのスキルを増やしているだけの子供は、例え50、60歳過ぎても、

大人とは思わない。

少なくともボクは・・・ね。

(もう3月だ。春だ。出発の季節だ。そんな潜在的な意識での夢だろうか。お得意の

説教臭いボクのお一人様独演会(笑)だった。でも、嘘ではない。これはほとんどボクの本心だな。)