大きな林の小道を抜けると、一面の花畑・・・
ひとつひとつの花も茎も葉も大きい
紅紫のブーゲンビリアの花弁からそっと立ちあがっている裸婦
雪のような肌にブロンドの髪が戯れている。
デュディ・モローの絵のような女
マリーゴールドの花弁は娼婦の開いた唇・・・
男を誘い込むように、ゆっくりと開閉している。
黒ユリは性器そのもの、甘い蜜を滴らせている。
花を女性のエロスに表現するのは、美術や文芸のアーティストたち・・・
古来より、清純なエロティシズムも濃艶なエロティシズムも花に例えて表現されている。
神話や伝説だって花と女性を結びつけているではないか。
花ことばの多くはセックスを暗示するものが多い。
アーティストのスタートはエロス
なぜなら、生きることがエロスなのだから。
どんなに無駄な言葉で身を包み、反論しようと、彼も彼女もエロスの行為からの誕生ではないか・・・。
日本の華道は花と人間のエロスの融合なのだ。
花を扱うことをアートの領域まで高めれば、必ずやそうなる。
色彩、形、匂い…
人間のエロティシズムの象徴としての、花の役割は大きい。
なぜなら、花は植物のセックスそのものだから・・・
花弁のしとねの中で、雄蕊と雌蕊が戯れている。
植物たちは、大自然の中で大らかにセックスを謳歌している。
それを全ての動物たちに開示している。
花畑とは、植物の愛の営みの楽園なのだ。
(ボクは、花畑を見るたびに、いつもそんな事を想う。訪れる女性たちの深層は何を想っているのだろうか。植物の大らかなエロスに対して、人間はなんて猥雑な感性しか持っていないのか、悲しくなるね。)