テレビ番組の企画会議で、発言している。
ドキュメント・バラエティのコンテンツが次々と浮かぶ。
そのひとつ、美しいヌード映像を最高のカメラマンを使ってアルバムにしようと提案した。
なぜなら、いつの間にかテレビから女性の美しいヌードが消えてしまった。
おバカなテレビ屋たちが、自主規制とかでやめたのだ。
だからテレビは文化に昇華しないのだ。
文化やアートに自主規制の衣はいらない。
エロスの極致を番組にする。
ドストエフスキーの「白痴」
それを映像化した黒澤 明監督
白痴美の原 節子さん。
白痴美の女は、無表情・・・
知性のない美貌・・・
そんな女に逢いたい。
男の…いや、ボクの求めている女性だ。
逃げ惑う群衆から離れ、
燃え盛る炎の中で、ボクは女を抱きしめる。
白痴の女はボクの肩にすがりつく。
「怖くはないか」
女がコクリとひとつうなずく。
今こそ、人間を抱きしめている・・・
ボクは思った。
自分自身に無限の誇りを持った、この狂いそうな感動・・・
まさに坂口安吾の「白痴」の世界だ。
女は白痴美の人がいい。
ポール・デルヴォーの「森の精」の裸婦だって…
ルイ・アントワーヌの「淫蕩な人」の裸婦だって…
シュールな画家の描く裸婦はみな白痴美。
エロスの絶頂こそ、将に白痴美の極みなのだ。
白痴美の女こそ、愛を拒否する愛の詩人なのだ。
(アホなマスコミの自主規制で思い出したが、「白痴」も差別用語になっているらしい。だから、「重度精神遅滞者」とマスコミは言う。馬鹿げている。差別とはその意識を持つ人間のことであって、言葉ではない。「白痴美」なんと美しい響きを持った言葉じゃないか!)