鎌倉の天園から眺望する相模灘は広い
小学校から高校時代まで、この辺りの山並みはボクの遊び場だった
小春日和の中、建長寺の半僧坊へ下りながら
ふと、川端康成を想い浮かべた
かの文豪は何故に自死したのだろうかと…
「人間は生より死について知っているような気がするから、生きていられるのである」
川端の「末期の眼」にある一節だ
好きな言葉として、ボクの言葉綴り書きにメモしてある
逆説的な言い回しではあるが
そう言うように死を感じる方が、生きるモチベーションになるのだろう
川端文学には、絶えず死の感覚が一本の糸のように描かれている
「伊豆の踊子」「眠れる美女」「山の音」「みずうみ」「名人」「雪国」・・・
死の感覚を変幻自在に描写している
川端自身が生き続ける証明の為のように…
川端文学には、しばしば明らかに処女であろうと思える少女が登場する
処女を犯せば生命的な危うさがある
賛美と破壊は二律背反
そこに川端文学がエロスの輝きを増す
生きる者には、死は一回だけ与えられる
誰も死そのものを見ることは出来ないのだ
きっとかの文豪は、それを見て見たい衝動が抑えきれなかったのだろう
ボクはひとり合点して、長い階段を下りている
(川端作品の見事な文体、文脈を感じながらも、あの不思議な活き活きしたエロスはなんだろうと思っている。それが死の意識なのだろうと形而上のボクが呟いた。うん、なるほどねと、形而下のボクが納得した。)