河村シゲルの夢か現か日記

夢は自分自身で創る芸術作品、脚本・演出・セット・キャスティングなど全て1人で担当してます。「無意識の思考を意識に伝えようとしているのが夢」だと、あのフロイトが言っています。ボクは最近、夢を毎日見ています。だからもう一人の自分探しの旅のつもりで夢日記を書き続けることにしました。

作家に、人格者であることを求めるな・・・

天から舞い降りて来たヤタガラスが、ボクに言葉を投げて来た。

そのヤタガラスは、時々やってくる。

そいつが投げつける言葉は、いつも毀誉褒貶する。

「作家に、人格者であることを求めるなよ」

突然、こんなことを叫んだのだ。

ヤタガラスの言う作家とは、どうやら文筆家や画家や彫刻家や音楽家などのクリエーターのことらしい。

つまり、もの創り人のことだ。

「作家の表現とは、現実追放された人々の最後のバーチャルな居場所なんだ」

「リアルな社会の中に、居場所がないから、歌ったり、踊ったり、演じたり、書いたり、創ったりするんだ」

確かに、そうかも知れないなぁと、ボクも想う。

作家のエネルギー源は、絶望かも知れない。

絶望ってやつは、毎日毎日、更新される。

その絶望にそそのかされて、生きることから腰を浮かして坂道をたった一人で降りて行く。

その作業が、もの創りなのだ。

キリケゴールも言っている。

「絶望とは、死に至る病である」

しかし今、生きている生が、必ず死を約束させられている限り、想いを遂げることは死に於いてしかない。

愛も然りだ。

死に於いて、盛りを永続させようとするのも又、命の営みなのだろう。

有能な作家が、自ら死を選ぶのは、そう言うことなんだろうな・・・

(なんだか、重たい圧迫感で目覚めた。でも、これはボクが絶えず考えていることだ。作家に道徳など求めるな。

作家は常に絶望の中に在る。作家は常に死を意識下に置いている。

作家は孤独な放浪者、ボヘミアン、五木寛之さんに言わせれば根なし草、デラシネなのだ。)