胸乳を掛き出で、裳緒を番登に忍し垂れき。
再び、この言葉が浮かんできた。
むなちをかきいでもひもをほとにおしたれき。
アメノウズメノミコトが石屋戸に隠れたアマテラスオオミカミをおびき出す
手段に全裸で踊った様を書き残している「古事記」の一節だ。
言葉は浮かび上がるが、映像が出て来ない。
ボクのアメノウズメノミコトは、いつもそうなのだ。
姿を見せてはくれない。
今、ボクの前に浮かび上がってきた女性。
それは、シュールの画家、コロヴィス・トゥルイユの描くような女性だ。
「オー・カルカッタ」の作品から飛び出してきたような女性。
全裸ではなく、西アジア風のストールを巻きつけている。
剥きだしにされた両尻には、蒼いヘナタトゥが描かれている。
これがボクのリピドーを刺激する。
ボクは女性の全裸が好きじゃない。
特に映像の全裸には、目を背ける。
そこには、なんらボクのリピドー欲望を刺激するエナジーがないのだ。
映画女優の全裸も見たいとも思わない。
絵画の全裸は美しいものもあるが、なにかひとつでも身に纏ったものがいい。
なぜなら、虚像を見ると言うことは、ボクの想像力で見る事なんだ。
全裸に、どんな想像力を働かせろと言うのだろう。
さぁ、次に現れる女性は・・・
ああだ、こうだ、考えているうちに目が覚めちゃったよ。
(フロイトは、人間の心理活動は全て、意識下に抑圧されたリピドーの働きだと言っている。ボクもそう思う。リピドーこそ人体全ての本能のエネルギー源なのだ。
エロスがあり、リピドーがあってこそ自然だ。想像力・創造力・・・見えないエロスこそ最高に美しい。アメノウズメノミコトはその姿が実像で見ることが出来ないからこそ最高の美女なのだ。)